それにしても、昔の人は偉かった。
男、五十五歳の旅立ち。三万六千キロを踏破した伊能忠敬
偉かったといえば、この人の右に出る人はいない。五十五歳から七十一歳まで十六年間、約九千里(三万六千キロ)を歩き、日本初の実測図を完成させた伊能忠敬。札幌から鹿児島まで、高速道路を車で走っても約二千五百キロ、といえば、その執念とエネルギーの凄さがわかろうというものです。それも「人生七十古来稀なり」といわれ、当時の平均寿命は、現在の約半分だった時代の話です。偉業をなし遂げたその背景には、外国から開国を迫られていた時代の大きな流れがあります。
開国といえば、ペリー率いる黒船が、鎖国の扉をこじ開けたと喧伝されていますが、実はその八十年程前から、樺太から千島列島にかけて操業していたロシア船が蝦夷地に来航、水や食粒を調達する目的で、日本に通商することを要求していたのです。
幕府にとって、蝦夷とは松前藩までで、その背後地の情報は皆無です。国を治める者にとって、未知の地が存在することはど不気味なことはありません。ロシアの動きも気になります。そこで、幕臣天文方の高橋至時は、自分の弟子の伊能忠敬に蝦夷地測量の白羽の矢を立てました。
測量といっても、忠敬は「歩測」で距離を測りました。蝦夷の測量を終わらせるまで、一日十里(約四十キロ)歩いたといわれています。十里といっても仕事をしながらの距離ですから、凄いことです。蝦夷の地図を完成させると、その足は太平洋沿岸、日本海沿岸、東海道海岸沿いへと次々に延び、ほぼ日本全国を踏破しました。
明治政府が、忠敬が亡くなって五十年後、西洋の測量技術を導入して、新しく日本地図を作製しようとした時、忠敬地図の正確さに外国人技師が驚いたという日本地図を、忠敬は完成させていたのです。
雇い主もダメとは言えなかったお伊勢参り
江戸時代、ディズニーランドも真っ青というほど、日本中の人々を吸い寄せる場所がありました。お伊勢さん(伊勢神宮)です。とくに世情が安定した一七〇〇年頃から熱狂的になったお伊勢参りの参詣者は、例えば文政十三年(一八三〇)などには、三月から六月までの問に、何と四百二十七万の人が押しかけたという記録が残っています。ちなみに、今年のゴールデンウィークにJR旅客六社が輸送した旅客が九百八十五万人、東京ディズニーランドの入場者が五十五万九千人だったといいます。それらの人出と比べても、その凄まじいブームのほどが想像できます。
家庭や社会が、平穏であればあったでお蔭参り。社会情勢に暗雲が漂えば、近畿地方は言うに及ばず、四国、北陸、中国地方、信濃、常陸、筑前、肥後などからも伊勢をめざす集団で伊勢路は溢れたといいます。
参詣者たちは「講(こう)」という信者組織を作り、団体で伊勢神宮を目指しました。おそらく、これこそ日本人の団体観光旅行の元祖と言えるでしょう。
人々の中には「ぬけまいり」という職を立てている人もいました。「ぬけまいり」とは、お店の奉公人や女中さんが、お店の主人に黙ってお店を抜け出し、お伊勢参りに出かけることを指したものです。
何から何まで罰則でがんじがらめの江戸時代。不思議なことに、お伊勢さんに行く限りは、連れ戻す迫手が放たれることもなく、帰っても決して罰してはいけないとされていたそうです。
旅費はどうしたかって?。それが当時の風俗画によると、背中に長い柄がついた杓を背負っています。ここぞと思う店や家の商で、これを差し出して小銭を恵んでもらい、路銀の足しにしたのです。京都では、米銭だけでなく、わらじに菅笠など、旅の支度まで参詣者にただで与える金持ちが現れたり、江州膳所の城主などは、伊勢路のあちこちに無料宿泊所を設けて、お伊勢参りに行く人々をサポートしたといいます。
純粋な信仰から神にすがりたいという発意からのお伊勢参りでしたが、時代がたつに連れて狂信的な兆しが見え、弊害が現れるようになり、下火になりました。
それでも百五十年以上の長期にわたり、伊勢神宮が庶民信仰と観光のメッカとして、庶民の心をつかんで離さなかったという歴史の不恩議と事実は、現代の私たちにも日本人の精神構造と大衆庶民のエネルギーの素晴らしさを語りかけているのではないでしょうか。
東海道五十三次。さて旅費は、如何ほど?
新幹線なら二時間余りの距離を昔の旅人のようなペースで気ままに十数日…。東海道が制定されて四百年目ということもあってか、東海道五十三次・四百九十二キロを歌川広重の浮世絵に思いを託し歩く人が増えています。
ところで、旅に出ればまず気になるのが宿。廷戸時代、街道の宿駅で一般人が泊まる宿屋を「旅籠」、素泊まりの安宿を「木賃宿」、大名などの偉い人ご指定の宿所を「本陣」と称しました。旅籠賃については、武蔵団、金沢(現在の横浜市金沢区)の神主が天保十五年(一八四四)に上方旅行をした際に書き留めた覚書によれば、大磯、清水などが二百文、桑名、大津が百八十文、丸子、掛川が百七十二文と記しています。当時は、日本橋の「橋」から京・三条の「大橋」まで、約二週間でたどり着くことを目安に旅行したといいますから、仮に一泊二百文として約三千文前後の旅籠賃がかかります。もちろん、それだけで済むわけではありません。
ともかく歩くしか目的地に着く術がないわけですから、疲れといかに折り合うかが、旅を無事に終わらせるキメ手。疲れたらお茶、甘いもの、食事などで一服したくなるのは、今も背も同じです。そのために、現代のパーキングエリアにあたる「立場」というお休み処が宿場間に設けられていました。そこでの出費もかかります。
それに、問題は大井川などの川越えです。架けてある橋を渡るか、橋がなければ渡し船、水かさが深くなれば人足の肩車や蓮台に載って渡ることになります。それぞれに川銭が必要でした。
ところで当時、旅のガイドブックとして爆発的なベストセラーになったのが十返舎一九の「東海道中膝栗毛」。登場人物の弥次さん(弥次郎兵衛)と喜多さん(喜多八)も、富士川の川銭に各々二十四文、安倍川の時は雨で水かさが増していたため、川越し人足の肩車を借りて渡り、各々六十四文と、心付けとして酒手十六文を払っています。さらに大井川では蓮台に載るはめになり、二人で四百八十文も払っています。
道中、雲助や盗賊の災難にもあわず、無事に着いたら着いたで、帰りもまた五百キロの苦労が待っています。トンボ返りというわけにはいきません。疲れを癒し、帰りのための活力を蓄えるために、京の宿に数泊する費用もかかります。
それに、多分、ほとんどの旅人が生涯に一度の“冥土の土産”の東海道五十三次。京の都での物見遊山の楽しみ、上方土産に大喜びする家族の姿も日に浮かび、お土産の一つや二つは買い求めなくては…。ということで、あれやこれやで、東海道五十三次往復の旅の費用は、当時の庶民の生活費の三~四カ月分に当たる費用がかかったと思われます。
ところで、これが大名の参勤交代となると桁違いの出費になります。加賀溝の参勤交代(二千人と馬二百頭・金沢~江戸間十二泊)の記録から察すると、参勤交代一回につき、宿泊費だけでも現在のお金に換算すれば、三億円超の出費がなされたと思われます。こうした度重なる出費が、次第に藩の財政を圧迫、お家騒動の火種となるのはテレビドラマ水戸黄門でお馴染みのシーンです。
全国の最新情報の発信人だった富山の薬売り
江戸時代、米や塩など以外に、流通網によって諸国に広まり、ナショナルブランドとなった商品はほとんどありません。しかし唯一、富山売薬と近江商人による漆器や日常雑貨だけは、行商というシステムにより全国に広がっていきました。
売薬商人の出現は、中世後期とみられていますが、富山売薬の全国進出のきっかけとなった「薬売り」出現の背景には、次のような挿話があります。
元禄三年(一六〇〇)、富山の当時のお殿様といえば前田正甫。その殿様が参勤交代で将軍に伺候したときの話です。
ある大名がにわかに腹痛を起こし、七転八倒の苦しみで瀕死の状態。将軍家の典医(医者)もお手上げの逼迫した状況です。そのとき、同座していた正甫公がおもむろに、携えていた印寵から数粒の丸薬を取り出し勧めたところ、なんとケロッと治ってしまったというのです。この一部始終を見ていた大名たちはびっくり仰天。即刻、富山のお殿様に自分の領土でも、その富山の丸薬を広めることを懇願しました。
俗に「入り鉄砲に出女」と言われるように、厳しい関所御碇により、おおっぴらに諸国を往来できなかった江戸時代。でも、領主からの直接の懇願ですから、富山の薬売りは大手を振って諸国を往来できたのです。その販売網も現在の企業の支店制度のように、南部組、秋田組、仙台組、五畿内組、九州組、薩摩組と組織化され、全回をカバーしていたといいます。全国津々浦々を歩き回る有商人には当然、各地の情報が集まります。山深い奥地に住む人々も、彼らから全国の諸情報を聞くことを心待ちにするようになりました。
全国を薬を売りながら歩き回り、諸国の最新情報を発信する人として、喜び迎えられ、茶の間にまで上がり込んでお金をもらい、茶菓子のもてなしまで受ける売薬商法は、考えようによっては、現代のマーケッティング戦略も足元にも及ばないビジネス・センスの結晶だったのかもしれません。